ブルゴーニュ (Bourgogne) ワイン
中世から世界の頂点に君臨
ブルゴーニュのワイン造りは、ローマ帝国統治時代に遡り、中世になると、キリスト教「ヴェネディクト派」(Benedictine) の「クリュニー修道会」 (Cluny) がぶどう畑の開墾や取得を始めて盛んになります。
その後、「シトー派修道会」 (Cistercians) の修道僧たちによるぶどう栽培が本格化し、ぶどう畑の拡張と現在につながる区画 (クリマ) の原型を作り上げます。
「シトー派修道会」は、ぶどう栽培に関する農業労働とワインの醸造技術を「芸術の域」に高め、ブルゴーニュの銘醸地としての地位を不動なものにしました。
ブルゴーニュの気候は、日照量の多い夏、寒さの厳しい冬、寒暖差の大きい昼と夜などぶどう栽培に最適です。
最適な自然条件に造り手たちによるワイン造りへの情熱が加わり、ブルゴーニュのワインは、ボルドーと並んで世界最高峰の評価を得ています。
「ワイン世界の古典的地域というものは、全てが発見され尽くし、全てが語り尽くされ、あらゆる手段が用いられた、そんな枯渇した場所ではない。最も優れた転換・変化が起こりえるところなのである。そして大地と人の技が融合して生み出される精妙の極みを追求するために最大の努力を払うことが、経済的に報われる場所である。」(ヒュー・ジョンソン氏) という言葉は、ブルゴーニュにぴったりと当てはまります。
ブルゴーニュほど、ワイン造りを長きにわたって探求を続けてきた産地は世界中に無く、数世紀にわたって世界の頂点に君臨し続けてきたワインの質について、情熱を持って語るのは容易なことではないです。
クリマ×生産者による独特な魅力
区画 (クリマ) は、長い歴史の中で、何世紀もかけて、人々の合意に基づいて細かく区分され、ぶどうは区画 (クリマ) ごとに入念に栽培されてきました。
各区画 (クリマ) は、格付けされて個性的な名前が与えられ、ブルゴーニュのワインを評価する際の基本単位になっています。
ぶどう栽培の仕事をする中世の修道僧たちにとって、個々の各区画 (クリマ) からのワインが微妙な差異を持ち、その差異は、毎年生産するワインの中に一貫して表現されるということは、自明なことだったと言われています。
ブルゴーニュの区画 (クリマ) は、一人の所有者によって所有されているわけではなく、多くの場合、分割所有されています。
その結果、ブルゴーニュにおいて、志の高いワインの生産者によって栽培されている格付けの低いクリマが、有名な Grand Cru (特級畑) よりも感動させるワインを生み出すことは、珍しいことではありません。
このような区画 (クリマ) の細分化は、ブルゴーニュの独特な魅力を生み出す源泉の一つと言われています。
多くの区画 (クリマ) に多くの生産者が掛け算される結果、ブルゴーニュ・ワインには、他のワイン地域に例を見ない複雑さ、奥行きの深さが生みだされます。
Grand Cru (特級畑) は、フランスの宝石だけでなく、ワイン世界全体の宝石!!
ブルゴーニュの格付けと評価
最高級の Grand Cru (特級畑) は、ブルゴーニュ・ワインの 4% 程度の生産量しかなく、1er Cru (一級畑) も 17 % 程度しかありません。
・Grand Cru (特級畑)
Grand Cru (特級畑) は、最高級ワインで、コート・ドール (Cote d’Or) やフランスの宝石というだけでなく、ワイン世界全体の宝石です。
Grand Cru (特級畑) に格付けされるためには、ワインは、特定された品種で、特定された区画の、少なくとも樹齢 3 年以上のぶどう畑から、単位面積当たりの定められた収穫量以下で収穫されたぶどうだけを使ったものに限られます。
許可される品種は、アペラシオンによって違いますが、赤ワインに関してはピノ・ノワール、白ワインは、シャルドネに限られます。
・1er Cru (一級畑)
1er Cru (一級畑) は、恵まれた場所の区画 (クリマ) に育つぶどうからのワインです。
例外的なほど優れたワインですが、平均すると、必ずしも Grand Cru (特級畑) のワインと同じ緻密さで造られているとは言えないワインです。
逆に言うと、1er Cru (一級畑) の中には、二流の Grand Cru (特級畑) を常に超えているワインがいくらか存在するということを意味しています。
Grand Cru (特級畑) を常に超える 1er Cru (一級畑) のワインは、既に市場での評価が高く、値段も安売りされることは期待できず、多くの場合、適正な価格が付けられています。
・村名格付け
村名格付けワインは、多くの人が「本物の」ブルゴーニュ・ワインをこの格付けから始めると言われます。
いろいろな特徴やスタイルが、その村の特色として語られています。
例えば、肉厚な「サヴィニー・レ・ボーヌ」 (Savigny-les-Beaune)、エレガントな「ヴォルネイ」 (Volnay)、華やかな「ヴォーヌ・ロマネ」 (Vosne-Romanee)、ナッツの風味が豊かな「ムルソー」 (Meursault) などです。
ぶどう品種の規制は、Grand Cru (特級畑) や 1er Cru (一級畑) と同じですが、村名格付けワインは、1 ha あたりの収量がもう少し多く許容されています。
値段に比して品質の高いワインが多く、お買い得ワインを見つけやすい格付けになっています。
・地域格付け
地域格付けワインは、最も下位の格付けで、1 ha あたりの収量は、他の格付けよりも多く許容されています。
この格付けで最上なものは、有名なアペラシオンの威光を借りた特定の区画 (クリマ) からのワインです。
例えば、「ヴォーヌ・ロマネ」 (Vosne-Romanee) の道を挟んだ向こう側の畑、「ムルソー」 (Meursault) の隣の畑など、地域格付けワインながら、区画 (クリマ) を特定できるワインが該当します。
また、この格付けには、その格付けに値しないと判断して、意図的に造り手が格落ちさせた Grand Cru (特級畑)、或いは 1er Cru (一級畑) からのワインが見つかることがあります。
クリマ・テロワールの成立
「ジュヴレ・シャンベルタン」 (Gevrey-Chambertin) で見つかった紀元 1 世紀の遺構には、当時、ローマ帝国が推奨したぶどう樹の最適な植栽法に則ったぶどう畑が見つかっています。
文字による記録が残っているのは、312 年に、コート・ドール (Cote d’Or) の西にあるオータン (Autun) のぶどう畑所有者たちがローマ帝国皇帝の「コンスタンティヌス」 (Constantinus) に届けた嘆願書と言われています。
嘆願書は「ここのぶどうの品質は良くないので、税率を低くしてほしい」という内容です。
また、775 年には、カール大帝が、「コルトン」 (Corton) のぶどう畑を教会に寄進したことが文字の記録に残っています。
中世になると、ブルゴーニュでは、ワイン造りにおいて、教会勢力が決定的な役割を果たすようになります。
909 年にヴェネディクト派の「クリュニー修道会」がシャロネーズ地区の「モンタニー」 (Montagny) の南に設立されました。
修道会は、土地を開墾して自らぶどう畑を拡大しながら、現世での行いへの懺悔として、貴族から土地の寄進を受けていたことなどから、ブルゴーニュのぶどう畑を次々に獲得していきます。
修道僧の仕事は、神に祈りを捧げるという敬虔な仕事から、土地とそれを耕す農民を管理する世俗的なものに変化していきました。
そして、「クリュニー派修道会」は、ブルゴーニュ一帯のぶどう畑を多く所有し、中世最大の土地所有者のひとつになりました。
一方で、修道僧の中には、土地と農民の管理と言う世俗的な仕事に幻滅し、元の厳しい修道生活に戻る者がいました。
そのような修道僧の一派は、1098 年に「シトー派修道会」を設立、ディジョン市の南東、シトー (Citeaux) に最初の修道院を建設しました。
豪華な黒衣を纏った「クリュニー修道会」と区別するために、「シトー派修道会」の修道僧は、質素な白衣を纏い、「白い修道僧」と呼ばれました。
「シトー派修道会」の修道僧は、自ら辛いぶどう栽培の仕事を行いました。
修道僧自らがぶどう栽培に携わった結果、ぶどう畑の場所の違いがワインの違いを生み出すこと、その差異が、毎年生産するワインに一貫して表現されることに気が付きます。
そこで、「シトー派修道会」の修道僧は、ぶどう畑を小道や石垣を用いて区画 (クリマ) を作り、同じような性質を持つ土地を区画し、個性的な名前を付けました。
それらの区画 (クリマ) を、「シトー派修道会」の修道僧たちは、ワインの味を見極めながら、さらに細分化していきました。
このように、「シトー派修道会」は、自分たちが造ったワインと、そのためのぶどう樹を注意深く栽培した区画の間に、強力な紐帯を築き、現在の原産地呼称統制制度の原型となる区画 (クリマ)、「テロワール」 (Terroir) といった概念の基礎を構築していきました。
原産地呼称統制法の成立と法廷闘争を経て、アペラシオン制度とテロワールの概念が確立!!
ドメーヌの誕生とアペラシオン制度
フランス革命後、土地を購入する資金を持っていたのは、大半が裕福な商人か第 2 列の貴族たちで、農民にとっては、領主が変わっただけのこととも言えました。
19 世紀になるとフィロキセラが蔓延し、一世代のぶどう栽培全体が、収入の無い状態に追い込まれてしまいます。
主要なぶどう畑があった土地の資産価値が、限りなくゼロに近づき、かつては安価で美味しいワインの原料となる果実を生み出していたいくつかのぶどう品種が見捨てられていきました。
裕福な商人階級の多くが、債務不履行のまま、荒れ果てたぶどう畑を放置して去り、歴史上はじめて、慎ましやかな貯金しか持たない農民でも土地が買える時代が到来します。
19 世紀中頃から自らが所有するぶどう畑のぶどうを用いてワインを造る「自家栽培醸造家」、現在のドメーヌ (Domaine) の原型といえる生産者が生まれました。
1930 年代には、ブルゴーニュに原産地呼称統制 (アペラシオン) 制度が法律として導入され、ブルゴーニュの根幹を成す、区画 (クリマ) の考え方とぶどう畑の区画割りが法律により認められました。
ほぼ同じ頃、1932 年には、ブレンド・ワインを多く扱っていたネゴシアンの「メゾン・ブシャール・エイネ」 (Maison Bouchard Aine et Fils) とヴォルネイの自家栽培醸造家である「ジャック・マルキ・ダンジェルヴィーユ」 (Domaine Jacques Marquis D’Angerville) を中心とするぶどう栽培農家の生産協同組合との法廷闘争が起こります。
生産協同組合は、自家栽培醸造家が大切にする「テロワール」 (Terroir) の価値について、ネゴシアンが「ブレンド・ワイン」を造ることによって、不当にその価値を落としているとして、ネゴシアンを原産統制呼称法違反で訴え、法廷で勝利します。
原産地統制呼称法の導入と法廷での勝訴により、現代へと続く「アペラシオン制度」が確立し、ぶどう栽培農家たちが必死に守ろうとしてきた「テロワール」 (Terroir) の概念は、広くブルゴーニュに浸透、ブルゴーニュ・ワインを支える基礎となっていきました。