ボルドー (Bordeaux) のワイン
ボルドーの成功は、最適な気候や土壌、地理的状況、歴史、人々による不断の努力による!!
偉大な産地になった背景
ボルドーは、ワイン産地として非常に長い歴史があります。
紀元前 3 世紀には、ケルト人 (Celt) によって、ボルドー市の原型となるブルディガラ (Burdigala) の町が築かれ、ケルト人は、カベルネ (Cabernet) 種の祖先となるビトゥリカ (Biturica) 種のぶどうを栽培していました。
紀元前 1 世紀には、ローマ人 (Roman) がぶどう畑を拡大し、ローマ時代の 4 世紀には、既にブルゴーニュ (Bourgogne) と並ぶワイン銘醸地として、ボルドーは、ローマ帝国内で名声を誇っていました。
その後も、ボルドーは、ワイン界の先頭を走り続け、それは、世界各地で良質なワインが生産される今日も例外ではなく、「世界の極上ワイン生産地域の中でも、疑いなく最も偉大で、最も高名な地域である。」 (ヒュー・ジョンソン氏) ことは誰もが認めるところです。
ボルドーは、「ワイン世界の古典的地域というのは、すべてが発見され尽くし、すべてが語り尽くされ、あらゆる手段が取り尽くされた、そんな枯渇した場所ではない。最も優れた転換・変化が起こり得るところなのである。そして大地と人の技が融合して生み出される精妙の極みを追求するために最大の努力を払うことが経済的に報われる場所である。」 (ヒュー・ジョンソン氏) という言葉がぴったりと当てはまる活力に溢れた産地です。
気候と土壌という二つの要素は、偉大なワインとなる潜在能力であるという意味で不可欠のものであり、ワインの品質を決定付ける重要な要素になります。
しかし、ボルドーが偉大な極上ワインの産地として、歴史の舞台に登場し、成功した理由は、気象と土壌という要素のみならず、地理的状況、歴史、そして不断の人間的介入によるところが大きいと言われます。
例えば、「高名な生産者を、そこから更に前へと進めるのは、その富であり、一貫性であり、たゆまぬ努力である。」 (ヒュー・ジョンソン氏) と言われています。
ぶどう畑のテロワールだけでなく、数世代にも亘って投下された投資、視覚的には、最新式のセラーや最先端技術が挙げられ、また、とりわけぶどう栽培において、近年のワインに品質の差異をもたらしているのは、第一にぶどう畑に注がれた資源、なかでも人的資源であると言われています。
ボルドーは、テロワールと投資、そして生産者ごとのアイデンティティと完全性の追求について、日々議論され、生産者によって実行に移され、優れたテロワールと設備のみならず人的資源に対する活発な投資が、ボルドーにて極上ワインが生み出される原動力となっています。
最適な気候のもと、ぶどう畑の土壌に最適な品種を選定、傑出したワインを生み出す!!
土壌と品種、傑出したワイン
ボルドーのワインは、ワインに関しては言うまでもなく、西洋文化の最高峰の一つであり、ワインを生産する世界中の地域が、羨み、模倣しようとしています。
そして、ラトゥール (Latour)、ペトリュス (Petrus)、イケム (d’Yquem) などのシャトーが、世界のワイン愛好家や収集家の間で信仰の対象に近い地位を獲得しています。
ボルドーは北緯45度前後とワイン産地としては北に位置しますが、大西洋沿岸を流れるガルフ・ストリーム (Gulf Stream) により温暖です。
ボルドーは日照量に恵まれ、秋は晴天が続き、ぶどう栽培に最適な大地が広がっています。
海洋性気候のため湿度が高く、とりわけ朝霧が発生する微気候のあるソーテルヌ (Sauternes) 地区からは世界最高峰の貴腐ワインが生産されます。
ボルドーの土壌は、主に「粘土質」、「砂利」、「石灰岩」で構成されています。
土壌の差異がワインの味わいにもたらす影響に関して、ボルドー大学醸造研究所は、1992 ~ 1994 年にサン・テミリオン (Saint-Emilion) 地区にて、同じ樹齢の、異なった土壌に育ったぶどう樹から生まれたぶどうを、同じ方法で別々に醸造し、テイスティングを行って、以下の結論を出しています。
「粘土質の土壌」は、「色が深く、タンニンの強いワインを生み出す。タンニンがこなれてくると、口中に芳醇でまろやかな味わいをもたらす。」
「砂利の多い土壌」は、「豊かな果実味、複雑なアロマの、後味が長く持続するワインが生み出される。若い時はタンニンがやや不快と感じられる。」
「石灰岩の土壌」は、「ワインにフィネスをもたらし、タンニンはやや控えめで、酸味の強い、それゆえ新鮮な、あまり重くないワインを生み出す。そのワインは年齢と共に精妙さを増していく。」
そして、「ある種の土壌が他の土壌と比較して、偉大なワインを生み出すためのより大きな能力を有しているということは事実だ。だからこそ、品質階級構成という概念が適用できるのだ。テイスティング調査もまた、ボルドーのテノール的な味わいの中にも、異なった土壌からは、異なった響きが生まれる、ということを示した。」 (ボルドー大学、葡萄栽培学教授、ファン・リューヴェン氏) と分析されているように、ワインの味わいは、土壌と密接に関係していると言われます。
ボルドーでは、実際、土壌の違いや地域ごとの気候等の自然条件にあわせ、様々な試行錯誤を経て、最適なぶどう品種が選定されています。
また、一品種からワインを造るブルゴーニュ (Bourgogne) とは対照的に、ボルドーは、複数の品種をアサンブラージュ (Assemblage) してワインを造ります。
ボルドーで最も栽培面積の多いメルロー (Merlot) は、ドルドーニュ川 (Dordogne) の右岸にある粘土質の多い土壌を好み、サン・テミリオン地区が有名です。
カベルネ・ソーヴィニヨン (Cabernet Sauvignon) は、水はけの良い砂利や石灰岩の土地を好みメドック (Medoc) 地区とグラーヴ (Grave) 地区が有名です。
辛口白ワインでは、砂利層の土地が広がるグラーヴ地区で栽培されるソーヴィニヨン・ブラン (Sauvignon Blanc) やセミヨン (Semillon) のワインが有名です。
ソーテルヌ (Sauternes) 地区とバルザック (Barsac) 地区は、ガロンヌ川 (Garonne) とシロン川 (Ciron) の合流地点にあり、朝霧が発生する独特な微気候を利用して、セミヨンを用いた世界最高峰の貴腐ワインが生産されています。
フランス革命以降、裕福な企業家や金融資本家が活発に投資、傑出したワインが多く生み出される!!
イギリスでの人気、活発な投資
海峡を挟んだワインの交易が活発になり、14 世紀の始めには、ワインの年間輸出量が 73 万ヘクトリットルに達していました。
フランス領に復帰した後も、ボルドーは、フランスで最も重要な港町であり、17 世紀にはロンドンに次ぐ繁栄を誇る港町になります。
大西洋と北欧航路の最重要ハブ港であり、ワインだけでなく、布地、香辛料、砂糖、コーヒー、穀物、鯨油などが取引され、自由で開かれた市場中心の都市でした。
ボルドーのワインは、フランスの主要輸出品目の一つとなり、その結果、ぶどう畑が投資対象になりました。
17世紀には、日記で有名なサミュエル・ピープス (Samuel Pepys) が「オー・ブリオン (Haut Brion) と呼ばれるフランスワインを飲んだ。素晴らしい味わいで、こんなワインは今まで飲んだことがない。」と絶賛した日記が残っているように、イギリスを筆頭に欧州全域で高い評価を得ていました。
18 世紀になると、ボルドーのワインは、イギリスにおいて、多くの愛好家を獲得し、その品質によって他の追随を許さない高値で取引されるようになります。
特に、オー・ブリオンは、当時としては最先端を行く、澱引き、二酸化硫黄の添加などによって、それまでの赤ワインに比べ、色が濃く、ボディーがしっかりとし、一晩で劣化することないワインを造り、極めて高く評価されました。
ボルドーのシャルトロン (Chartrons) 河岸は、ネゴシアンとクルティエの主な住所となり、ハウス、セラー、ワイン倉庫が立ち並び、多くの人々がワイン製造、熟成、船積みのために雇用されました。
また、フランス革命後、教会、貴族、宮廷政治家たちは、所有地を没収され、その土地は、競売にかけられました。
その結果、銀行家・企業家・商人たちがボルドーの土地を所有し、裕福な企業家や金融資本家がボルドーに投資すると言うパターンは、この頃に確立し、今日まで続いています。
ボルドーは、「商人のぶどう園」 (Vignoble de Marchand) であり、ブルゴーニュの「農民のぶどう園」 (Vignoble de Paysan) とは対極に位置すると言われます。
これらは、特に、19 世紀後半において、フィロキセラによる病害に苦しむ時代に有利に働き、今日まで続くボルドーの優位性の源泉になっています。
パリスの審判、ボルドーの復活
1976 年には、パリでボルドーを中心とするフランスの高級ワインとカリフォルニアの新興ワインとの比較試飲会が開かれます。
誰もがフランスに栄冠が輝くと事前に予想しましたが、カリフォルニア勢が圧倒的勝利を収め、世界中に激震が走ります。
後に、「パリスの審判」と評される衝撃的な事件は、アメリカを含む新しい産地の興隆をもたらし、20 世紀最後の 25 年間で、世界のワイン地図が塗り替えられるきっかけになりました。
しかしながら、ボルドー・ワインの名声は、地に堕ちず、逆に、ボルドーの高級シャトーは陽の昇るような勢いになりました。
状況を一変させたのは、「奇跡のヴィンテージ」と呼ばれる 1982 年です。
1982 年の「奇跡のヴィンテージ」は、多くの意味で、ボルドーの分岐点になりました。
1982 年のボルドーは、1970 年以来の真に偉大なヴィンテージとなり、成功はボルドー全体にわたり、しかも桁外れの収穫量の年でした。
そして、1982 年ヴィンテージは、ボルドーの、より豊饒で、より完熟した、より現代的なスタイルの先駆けとなり、品質においても、価格においても、消費者を満足させ、後のボルドーにおけるワイン造りの基準になりました。
また、1982 年は、ワイン評論家のR. パーカー氏が、100 点満点法による評価を開始した年であり、同氏は、ボルドー・ワインを高く評価、出版界も活気づきます。
これらの結果、ボルドーは、再び世界的な注目を集め、資金が流入するようになります。
例えば、1980 年代において、ピション・ロングヴィル・バロン (Pichon Longueville Baron) を買収した保険会社のアクサ・ミレジム (AXA Millesimes)、グラン・ピュイ・デュカス (Grand-Puy Ducasse) を買収した仏金融グループのクレディ・アグリコル (CIB)、ラグランジュ (Lagrange) を買収した日本のサントリー (Suntory) などが挙げられ、買収後に活発な投資を行い、ワイナリーを改革してワインの品質を急速に高めていきます。
そして、ボルドーが復活するにつれ、1990 年代になるとより多くの投資家たちが戻ってきました。
例えば、ラトゥール (Latour) を買収したグッチやイヴ・サン・ローランを傘下に持つフランソワ・ピノー (Francois Pinault)、シュヴァル・ブラン (Cheval Blanc) を買収したクリスチャン・ディオールの大株主ベルナール・アルノー (Bernard Arnault)、ローザン・セグラ (Rauzan Segla) とカノン (Canon) を買収したシャネルのオーナー、ヴェルテメール兄弟 (Wertheimer et Frere) などです。
この流れは、現代においても変わらず、2000年以降も所有者が変わったボルドーの生産者が幾つもあり、パリを本拠とするビジネス界の大物、シャンパン・ハウス、保険会社などが新たなシャトーの買い手として名を連ねています。